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カテゴリ:old story( 10 )

ネクター

不二家のしたことは許すべきことではないですが
ネクターが消えるのは忍びないです。
子ども時代の憧れの、ネクター。
高いのよっ!と なかなか買ってもらえなかったネクター。
偽ネクターで騙そうとしていた母ですが
子どもだって味は分かるとです。

昨日は、不二家レストランの話をしてました。
昔(20-30年前)の天神、西鉄名店街の端っこにありましたよね~って。
いまでいうとソラリアステージの三越側辺りになるんでしょうか。
お向かいに、和風小物雑貨店(当時はお土産屋さんと言っていた)。
ペコちゃんがデンと店頭に居る喫茶あんどレストラン・・・。
ここもなかなか連れて行ってもらえなかったなー。

あ、あと、当時の岩田屋と西鉄福岡駅の間の中2階に
風月、がありませんでしたか。
オトナ~なカンジで。
子どもは立ち入り禁止、みたいな。

昭和40-50年代のお話でした。
なんか日記残ってないかなあ。
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by mcp_fukuoka | 2007-02-01 10:37 | old story

家一軒が草履一足に。

明治生まれのおばあちゃんがよく言っていた言葉です。

父方のおばあちゃん、今年たぶん98歳。
大牟田界隈の出身。
もちろん もう認知症でていますけど
わたしは高校生時代に同居していて、
そのころ、聞いて覚えている言葉がいくつかあります。

「仕事があるってことは
誰かが あなたに頼む、ってことやから
お金のことじゃなくて 大切なことやから。
仕事がない、ってことが いちばん悲しい、寂しいことやけん」

「お金は 貯めとっても、信用できん。
家一軒分貯めとったけど、戦争が終わったら
草履一足になってしもうた。」

戦争は、太平洋戦争のことで、
約60年前、おばあちゃんは当時30代でしたが
鉄道会社に勤めていたおじいちゃんの給料を節約して
家が一軒建てられるくらい貯金していたらしいのです。
それが、戦争のあとの、通貨切り替えで
一気に「草履一足」になってしまった。

いまの福岡価格でいえば、4000万円くらい貯まっていたのが
4000円になった、ってことでしょうか。
いくらなんでも誇張かな、と思わなくもないですが
当時、しみじみ思ったのは
お金や制度は 時代時代で変わっていくってことなんだなということでした。

おばあちゃんの 名前は「イト」です。
「イトしゃん」と呼ばれていたらしい。
90歳を過ぎたころ、大牟田の海で遊ぶ夢をよく見ると話していました。
大きな船が入ってきて、家族近所みんなで押しかけるとか、
疲れ果てるまで泳ぎ続けるとか、
むつごろうが おってね、とか、そういう話。

当時、女性は学校に行くことも難しく
(彼女は今でいう小学校前後まで。難しい漢字は書けず平仮名で書いてました)
結婚相手は親に決められ(いとこ結婚で)、
戦前は選挙権もなかったはず。

大牟田の海で遊びまわっていた子ども時代から
大正デモクラシー頃が青春期、
そして戦争を幾度か経験し・・・
日々の生活ではものすごい変化があった時代じゃないかと思います。

ぼちぼち 確定申告です。
毎年この時期になると 前年の仕事とその収支をリアルに感じます。
そして必ず祖母の言葉を思い出すのです。
(そろそろやらなくちゃなあ)

そういえば がばいばあちゃんも 流行ってますね。
明治生まれのおじいちゃん(ことしたぶん99歳)についても
たいへん尊敬しています。
おじいちゃんの話は またいずれ。
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by mcp_fukuoka | 2007-01-25 07:55 | old story

夏休み絵日記(王子と子じき)

a0000344_23282016.jpg
7がつ28にち 月よう日 はれ

わたしは、26日土よう日に王子と子じきをみにいきました。
こえがあまりきこえませんでした。
それでおもしろくなかった。
でもぶたいだけでもおもしろかった。
その日はとてもあつかった。
ながくつづいてつかれた。
こんどは とうえいまんがまつりにいけそうだといっていました。


改行は原稿どおりだと読みにくいので変えました。
たぶんこれも1年生のころでしょう。
「子じき」って・・・(汗)

それにしても、
ステージやった人には かなりガックリくる感想文ですね。

最後「いっていました」って誰がや。
母かな。
当時の我が家の貧乏具合が忍ばれます・・・
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by mcp_fukuoka | 2007-01-17 23:21 | old story

夏休み絵日記(昭和44年)

a0000344_10494672.jpg小学校1年生の夏休み絵日記です。
なぜか同じ日に2枚描いています。
(きっと宿題が終わらず慌ててるんですね)

最近は、アイランドシティや海の中道での仕事があるので、なんだか懐かしい気分。

(上の絵の日記)

八月 二十五日 月曜日 くもりのち雨
わたしは、二十四日にし
かのしまにいきました。
おかあさんといもうとの
M◎◎ちゃんといきまし
た。おかあさんからおよぎをおし
えてもらいました。かい
そうをとったりかいをと
ったりやどかりをとった
りしました。ボートやモ
ーターボートがみえまし
た。水ぞくかんでさかな
やかめをみました。


(下の絵の日記)

八月 二十五日 月よう日 くもりのち雨
わたしは、八月二十四
日にしかの島にいって
かえりにきゃくせんの
おとひめ丸にのりまし
た。ふねにのるときな
みにあわがでました。
あわは前のほうからふ
きだしました。しかの
島のうみはきれいだっ
たけどはかたのうみは
にごっていました。



ちなみに、まだ海の中道海浜公園は出来てないころです。
今年で開園20年だから。
当然水族館は 今のマリンワールドじゃないですね。
どんなだったんでしょうか。
あの白砂海岸を越えて橋を渡って志賀島に入って
車で一周するのが大好きでした。
2005年3月の地震のあと、
一部の海岸沿い道路は閉鎖されていましたが
そろそろ開通したでしょうか。
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by mcp_fukuoka | 2007-01-14 10:49 | old story

本格的仕事始めに鑑み>「えんそく」@小二

いや、特に他意はないです。
お正月実家から持って帰った作文から
今回は小学校2年生の時のを。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   えんそく  二ノ七 MやもとHつね
 きょうは、えんそく でした。朝は、くも
りでした。が だんだん はれて きました。
 おべんとうを もって いくのを わすれ
たのですが 友だちが もって きて くれ
ました。学校に ついたら もう 日が て
って いました。おかあさんが リュックサ
ックや、すいとうを もって きました。
 十時二十五分に ならんで 学校を 出ま
した。たくさん 歩いて やっと かいずか
公えんへ つきました。ふん水の ちかくに
リュックサックを おろして そこで おべ
んとうを たべました。おかしは かいずか
公えんの 船の ちかくで たべました。
 友だちの りつ子さんと 石ばしさんと
あそびました。しばらくして しゅうごうの
時間に なりました。そして 一ど 学校へ
よって それから 家へ 帰りました。
 あしたは てんのうへいかの たんじょう
日です。  四十五年四月二十八日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

遠足なのに 弁当もリュックサックも持たず
いったい何をしてるんでしょうか。
なぜ友達が弁当を・・・?
当時は団地住まいで
ご近所づきあいが密接だったので
母が頼んだのでしょうか。

作文内容も遠足の中身より
何時に何した、みたいな事実記録。
しかもラストの無理矢理さ。
ふつうは紋切り型に「楽しかったです」と
書くところではないでしょうか。
なんだか反抗的です。
先生は五重丸を付けていますが・・・。

ストレスあったんでしょうかね〜
名島小学校二年生のときです。
新しい担任は新卒の女性で
一年生の時(ベテラン男性教師)とだいぶ勝手が違ってて
いらだっていたのは覚えています。
先生やりにくかっただろうなあ

かいずか、って、間違ってるし・・・
貝塚=かいづか ですね。
いまのように交通公園に整備される前の貝塚公園です。
(でも 船・飛行機・機関車、、、とか交通モノがいっぱいありました。
飛行機は特にダンシに人気ありました)

昭和四十五年の福岡。
1970年ですよね。万博の年。
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by mcp_fukuoka | 2007-01-10 07:01 | old story

初笑い用>小学1年生の時の作文

正月実家に帰ったら
幼少期の恥ずかしい作文・テスト・お絵かきを山ほど持たされました。
なんだって、当時の座席表まで取ってあるんだ!
といいつつ、中身もけっこう笑えるので、初笑い用におひとつ。

作文の用紙と漢字の使い方から、小1時のものと思われます。
当時の担任が作文好きでしょっちゅう書かせていた。

単語と単語の間を開けるのは その先生の指導です。
こどもは字を大きく書くので少し拡大。
名前一部伏せ字(いまさら・・・)。

>>>>>>>>

(タイトルなし)
          MやもとHつね
 わたしの いえは、だんちだから、
花だんが だんちの下に あります。
だから わざわざ 下に おりて、水
を あげなきゃいけません。でも、て
つおさんの いえは いいな。だって
にわに 花だんが あるもん。それに
にわが ひろいから おもしろそうだ
もん。わたしの いえは、にわが な
いだもの。だんちだから いえも せ
まいから こんど、 ひっこすいえは
ぶんじょうが いいな。

>>>>>>>>

東区の松崎あたり福岡県住宅供給公社の2DKに
一家4人で住んで居たころの作文です。
近所には一戸建ての新築分譲住宅がズラー☆
高度成長期まっただなかの昭和40年代。

読んだ親は・・・ つらかっただろうか。
(当時30代前半)

で、結局「ぶんじょう」(=一軒家のつもり)には
その後も住んでないな。

それにしても、、、、、いったい、
てつおさんって、誰?
「さん」づけだからオトナの男の人?
庭で水やりしてたんだろうか。
まったく思い出せん・・・
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by mcp_fukuoka | 2007-01-03 07:15 | old story

ケンビと噴水

a0000344_17171478.jpg

このまえ、ケンビのKなみさんたちとお話していて、
カーナビなどで、ケンビのとこに噴水マークが出るのだと聞きました。

噴水は、須崎公園の中にあります。
後ろに見えているのがケンビです。
須崎公園は福岡市が管理。
(ちなみに 福岡シビがある大濠公園は福岡県の管理、という
メンドくさい関係になっております)

1962年生まれのワタクシにとって
須崎公園の噴水は、たいへん見惚れていたものでした。
ここの野外劇場では いつも労働組合の人たちのイベントがあってたし、
当時のケンビは福岡県立文化会館と言っていて、
有名な展覧会(日展とかルノワール展とか)は必ずココだったし、
お向かいの福岡市民会館もオシャレなコンサートやお芝居の場だったし・・・

噴水の水を掛け合いして 母親に叱られたりしてましたなー
かえり際には、「ショッパーズプラザダイエー」地下でお買い物したり。。。
スベンスカのパンが革命的だったなー
(あっ またメシネタに)

高度成長期からオイルショック・紙不足のころの福岡のお話でしたー
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by mcp_fukuoka | 2006-08-29 17:17 | old story

83年当時のことをば、少し、、、。>くがいさんよりご投稿

※奈良の展覧会の件などでご登場している くがいさんから
83年頃のお話が届きましたので、転載します。
のちほど、ちょっと私の視点からの追加を書きます。

83年当時のことをば、少し、、、。

Miyamotoさんは、当時大学生で、83年5月のFMF主催パーソナルフォーカスが最初の出会いだったと記憶しています。ぼくが、「映像チンドン屋」をやったら、なんか黒づくめの子が、うしろにくっついてきたような、、、。多分それがMiyamotoさんだったのでしょう。

その後、6月ごろ、「ぼくたちは???でアートする」(???に入るキャッチを忘れてしまった)ツアーがありました。Wこー君とDぶちとMiyamotoさんたちがフェリーで、神戸にきました。このときも黒づくめでしたね。ぼくのMiyamotoさんのイメージは、黒なんですわ。

ぼくはといえば、その春に卒業して、就職し、奈良の天理に住んでおりました。だから、ぼくはフェリーには乗っていません。六甲のO田さん宅にみなで泊めてもらい、翌日の土曜日に、阪急王子公園駅(当時は確か六甲駅と言った)近くの神戸青少年センターでイベントを行いました。

主催は、シネヴォワイヤンです。シネヴォワイヤンは、前述、O田さんと、K池さんが2人でしていた、自主映画上映グループです。K池さんは、今でもがんばっています。イベントの最後のライブというのか、セッションというのか、訳のわからんの(ぼくは、もち映像チンドン屋)に、ぼくの京都の友人のK村が乱入して、ピアノを弾き始めよりました。そのまま、一行に居ついて次の日の京都のイベントも出よった。

その翌日曜日は、銀閣寺そばのイベントハウス(名前忘れた)で、しました。主催は、Y下N子さんシネマドオルフェだったと思う。シネマドオルフェは、当時は京都で、たぶん唯一実験映画を上映するグループ、というかY下さん1人でやってたと思う、まあ、京女版カチカチ山みたいなもんかな,,,で、京都時代に良く見に行きました。映画については、彼女に育ててもらったようなもんです。イベント後はドンちゃん騒ぎをして、なぜか京大西部講堂でみなで、雑魚寝しましたな。なぜ、西部講堂だったんでしょう。謎です。

ところで、前述のO田氏ですが、たしかオーストリア留学(当時、神戸大文学部助手)だとかで、その1,2週間後に、同じ神戸青少年センターでお別れ上映会をしました。上映作品は小津安二郎の「東京物語」でした。渋い!なぜか、チャボを抱いたケッタイナ外国人女性が来ておりました。映画のクライマックスの場面で、映写機が故障し、一度場内を明るくすると、みな泣いていました。チャボ婦人も大泣きしてました。この話はどうでも、よかったですねえ。ところで、このO田氏、あれから帰ってこないんです、消息不明なんです。K池さんに聞いても、「さあーーー」。

閑話休題、もし、このO田さんの近況をお知りのかた、おられたら、お知らせください。

てな、ツアーがありまして、9月のゲーコーダイ・タジゲンにつながるんだと思います。この間に、ぼくは知らないが、WこーとDぶちとMiyamotoさんあたりが、つるんでなんか面白いことしようぜ、てな乗りで、タジゲン・イベントにころがったんだと思います。その間の経緯は全然しらない。ぼくは、乗っかっただけです。

ところで、そのタジゲンなんですが、ほとんど覚えていないんです。自分のこと以外は、、、。出演者で覚えているのは、Wこー、Dぶち、Miyamotoさん、例の京都のK村、あとかわいい女の子がいたような。全部で6人だったかな。1人当たり持ち時間30分で。

ぼくは、天井にスクリーンをはっつけて、改造8mm映写機を手で持って天井上映をしたんだけど(PEACOCK 83)、他の人で覚えているのは、Dぶちの「ばるんが」くらいかな。長い黒いポリフィルム(よく畑に覆っているやつ)をつなぎあわせて巨大な風船を作ってその中に、観客を入れて、手作り電子楽器で演奏をする、といったパフォーマンスだったような気がする。

このDぶちという男は面白いやつで、これほど色んなことをやるやつにお目にかかったことは無い。多分、専門はCGだろうけど、フィルム、ビデオ、オブジェ、音楽、楽器作り、自分のレーベル(CAT/DOG)でのテープ、LP制作・販売、イラスト、漫画(学生時代、ジャンプかなにかで、かなりのところまでいったみたい)、パフォーマンスetc. 数年前、キリンなんとか大賞ちゅうやつを取りました。

またまた、しようもない話なんですが、Dぶち君、留年して5年めは学生寮を追い出されて、当時、前年までぼくの住んでいた下宿の部屋に住んどりました。醸酢屋(名柄:子宝酢)さんの醸酢場(酒蔵にそっくり)の屋根裏部屋を改造したもの。塩原の竹下寄り、那珂川沿いで、いまは区画整理されて、全く影も形も無いようです。

またまた、脱線。

残念ながら、このときのMiyamotoさんのこと、全然おぼえてへん。やっぱり黒かったような気がする、、、。Wこーも何したか全然覚えてない。

この時に、FMFの方々がみにきてくださって、Nトさんが、「うちに出さんか?」と言ってくれたんで、翌10月のFMFオープンフィルムボックスに出品しました(秀工社ホール)。(自分のことは良く覚えてる)

おそらく、ここに、IAFのY野さんとかE上さんとかが、来られていたものと思われます。ここらあたりで、接触があったんではないですか?

つづく


※miyamotoから補足

くがいさんたちが、映像ちんどん屋さんをパーソナルフォーカスでなさっていて、そのときのチラシを見て、神戸に参加しました。
だから、パーソナルフォーカス会場では、後にくっついては居ないはずです。神戸では、黒かったと思います。
ちなみに、わたくし、このときの神戸で初めてカエルを食しました。

それから、私は、あのタジゲンでは、赤い着物を着てヒラヒラしょーもないパフォーマンスをしました。ああ、恥ずかしい。記録がなくて幸いです。
もうひとりの可愛い女の子は、MAMIちゃんだと思います。イラスト描いてた丸顔の女性じゃなかったですけ。たしか音楽系のかたともつながりがあったと思います。
いまもMAMI☆MAMIさんて、アーティストいますが、彼女とはもちろん別人です。

それから、Y野さん、E上さんとは、このへんの事情で接したわけではなくて、IAFに私が初めて行ったのは、前にも書いたように、Q大のミニコミ取材のためでした。実をいうと、大学の美術部の友達が先にIAFに通っていて(シルクスクリーン)、そういう実技教室だと思っていたので、あまり関心がなかったのでした。でも、その取材のとき、現代アートの作家さんたちと出会って面白いなと思ったのでした。

まあ、この辺の時代になると、それぞれ受け取り方と事実関係について、個人差が大きいようで・・・・・・・私が前に書いたやつも、だいぶ違うと言われたりしました。

毛利さんたちの討議2にあったように、歴史や記録というものは、重要なことですし、なるだけ事実として残したいものですが、いつも、少し現実とはずれて行くのかもしれません。

ところで、くがいさんが福岡を離れてからのご活動がよくわからないので、つづきの折にでもお聞かせください。m(_ _)m よろしくお願いします。
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by mcp_fukuoka | 2005-03-30 12:32 | old story

1994年ミラクル

FじHろしさんが、掲示板で書いていた、1994年ミラクル。
そう、この年の福岡アートは大騒ぎでした。

MCTは3回目の開催でちょっとこなれてきはじめたとこでしたが、
天神と能古島を会場に分散したのでオオゴトに。

草間彌生さんや池水慶一さんなどのオンタイによる堂堂とした作品、
ヘリ・ドノ、タン・チンクアンのアジア作家はパフォーマンスも披露、
小沢さんのなすび画廊は天神を埋め尽くし・・・
マツカゲさんの能古滞在制作はソラリアプラザで展示され・・・

福岡市美ではアジア美術展がおこなわれ
アジア各国からアーティストが大量に滞在制作中。
これぞアーティストインレジデンス〜だったですね!
(当時はそういう言葉なかったかも)
いちぶMCTの作家と錯綜。
(ヘリ達はシビが招聘し、MCTと共同でいろいろ経費を出し合った。)

藤浩志さんもアジア展の招待作家だったのでした。
(作家表記の時は伏せ字なし。ていうかあんまり伏せてないし)

そして、ケンビも地元作家による現代アート展を開催。
村上勝、和田千秋、桑野よう子(桑の字はホントはもっと難しい)などなど
7名のアーティストが新作を発表したのでした。

当時、シビのUしろSょうじ学芸員さんがおっしゃってました。
三本の矢は折れない。

ギャラリーも企画展をいろいろプロデュースしてて
ほんとアートイベントがたくさんあって、
福岡にいろんな人がやってきた夏&秋でした。

あの年、水不足・日中断水の大名界隈で
毎晩どこかここかでアーティストたちが集まっていました。

いろんな国のいろんなアーティストが
わらわらとこの町の中にいる、そのことがとても新鮮だったのでした。

やっぱ10周年、何かしますか。
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by mcp_fukuoka | 2004-08-05 11:33 | old story

IAFに初めて行ったのは1984年4月17日(たぶん)、20周年ですねん。

ヒジョーに個人的なことですが、
わたくしmiyamotoが、IAFと関わりだしてから、
今週末あたりで、ちょうど20周年になるのです。

私が現代アート系の仕事をしているのが
ミュージアム・シティ・プロジェクトが始まったあと、と
思っているかたもいるみたいなので、
ここらで少し昔話も書いておこうかな、と。

IAFって何?って言うかたも居るでしょうね。
現代アートの教室みたいなところでした。
当時のIAFのあった薬院の場所は、
いまはIAF shop*という名前で、ギャラリーとかやってます。
当時はY野さん、E上さんたちが先生をしてたのです。

簡単に言えば
ミュージアム・シティ・プロジェクトの母体になったところ、
とでも思っていただければいいのかな。
ホントは少し違うけど。

IAFに行った当時、私は21歳。大学3年くらい??
その前の年あたりから、
FMF(フィルムメーカーズフィールド)の実験映画の上映会に参加したのをきっかけに、
ゲーコーダイ(今は九大なんですよねえ)の人たちが
実験映画とかパフォーマンスのイベントとかやっているのに
ちょこちょこっと参加したり、見に行ったりしていました。

(そのころは、実験映画、といえば福岡という時代。
ゲイコウダイと福岡市美とFMFの三者で強力タッグがあったのでした。
E上さんもY野さんも映像作品作ってたし、
アートと映像がすごく近い時代だったですね。)

当時の九大美術部の友人がIAFに版画(シルクスクリーン)を
習いに行っていたので、IAFの名前は知っていました。

あと、浪人中(1982年頃)に
福岡市美術館でやっていたグループ展(たぶん「芸術機能展」)を見ていて、
ああ、それがIAF=Institute of Art Functionかーなどとも思っていたものでした。

川俣正さんによる展覧会、
複数箇所(シビ+天画廊+大手門のアパート・和田荘だっけ?)で作品を発表、
というユニークな展覧会もこの前後だったのではないでしょうか。
ご案内ハガキを頂戴していたのに、たぶん試験かなにかで行けなかったのです。
いま思えば惜しいことをした・・・。

IAFに行く前から、E上さん(当時32歳?)は何となく知っていました。
そのころ天神あたりを長髪で歩いていたのは
E上さんと、実験映画のKちかち山と、
アクセサリー作ってる何とかさん(名前忘れた、今もやってらっしゃいます)くらいで、
E上さんは、とてもとても目立っていたのです。
よくタイダイのずるーとした上着を着ておられたですね。
Y野さんは、野球帽みたいなのをいつもかぶっていたので(当時33歳?)、
あまり分からなかった。

で、1984年4月にIAFに初めて行ったとき、
私は版画を習うつもりだったわけではなく、
知り合いの九大生が出していたミニコミ「おすぼーん」の取材、
ということで行ったのでした。

「おすぼーん」は、
当時の「シティ情報ふくおか」には、
地元ワカモノの音楽や映画などの自主的な表現に関する動きが
あんまり反映されていない、ということで
有志が集まってつくっていたミニコミ誌でした。
何号くらい続いたのでしょう?
自主映画制作の連中が中心だったような気がします。
美術系の情報をお願い、と言うことで、私のところに話が来たのでした。

84年の4月、そのとき、北山善夫さんが福岡に来ていて
(たぶん福岡市美術館あたりで展覧会やっていたのでは)
北山さんのお話の会が、IAFでおこなわれる、ということで、行ったのでした。
いまでいうアーティストトーク、ですね。

白い壁に作品のスライドを投射して、北山さんが話をされ、
そのあと、たぶん宴会をしたのだろうと思います。
ゲイコウダイ関係のひとも当時は多かったような・・・。
いちおう私も取材したのかな。
実はそっちはあんまり記憶にないです。

その後、IAFには、ほぼ毎日行くようになりました。
その年の夏に京都・大阪でおこなわれた「多数多様態展in関西」には、
いきなり出品+パフォーマンスしました(京都書院ホールと梁画廊)。
つまり、その作品を作ったり、
いろいろと打ち合わせたりするために、日参してたんでしょうなー。

この年はローリーアンダーソンが京都に公演に来ていて、
二週続けてフェリーに乗ったのを覚えています。
キタキューから神戸まで学割で3600円だったなー。
あれって片道じゃないよね、往復料金??

大学の美術部部展以外の展覧会参加が
いきなり京都、遠征ってことで
いま思えば何て無謀。
作品、ひどかったしなー。

でもって、その秋には、W辺宏さんと二人で企画して、
福岡市中央区港あたりにて、
廃屋アパートを使った現代美術企画展「スクランブル・プラン」、
てのをやったのでした。
貘のO田さんが、チラシ広告を快くOKしてくださったのが
とてもとても有り難かったです。

これが私にとっての現代アート企画初回、とすれば、
今年はそっちの面でも20周年てわけですなー。

その後のことはまた後日。

うーん、昔話って感じだなあー
自分的にはついこの前ですけども。
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by mcp_fukuoka | 2004-04-16 14:34 | old story